霧島・韓国岳の名の由来と隼人族


  682 年(天武11年)大隅隼人・阿多隼人(薩摩半島南部)の語が日本書紀で初見される。

 八世紀には阿多隼人は「薩摩隼人」の語に代わる。

 古代大和朝廷の起源は不透明だが「大和朝廷と天皇家の起源は百済(くだら)人の子孫である」と古事記等に記述もある。


韓国岳(霧島連山)

 この豊前の国、稲積郷から多くの民が大隅へ派遣され、移住した人たちは故郷の聖山稲積山にちなんで「稲積郷」と名付け霧島山の最高峰(1、700b)を韓国岳と名付けて聖山とし国分の上井に『韓国宇豆峰神社』を建立し郷の氏神とした。

 713年(和銅6 年)『肝付(きもつき)曾於(そお)大隅(おおすみ)姶羅(あいら)』の4 郡が独立して「大隅の国」ができた。その後も一部ハヤト族がヤマト朝廷に従わず対立して、時には争いもあった。

 714 年(和銅7年)5、000人(1戸25 人、200
戸)が豊前より豊国郷、大隅国正八幡宮(鹿児島神宮)がある隼人町一帯に移住させられた。

「隼人の研究者中村明蔵氏が挙げた豊前国戸籍台帳から割り出し1 戸当たりの平均家族数は約25 人と記している」

 720 年(養老4 年)2月29 日、九州大宰府から大隅隼人の蜂起で、大隅国の国司、陽候史(やこのひと)麻呂(まろ)がハヤトたちに殺害された事件の知らせが届いた。

 大和朝廷は大伴旅人を征隼人持節大将軍として副将軍を2名立て大隅地区在住の朝廷軍と,更に宇佐や各地よりの援軍併せて約1万人の大軍でハヤト軍を攻撃したが、ハヤトは大隅・日向(ひむか)に下記、7ヶ所の城をかまえて抗戦した。

1、比売乃(ひめの)城 (隼人町、姫城の城)

2、石城(いわき)   (国分市・城山)

3、奴久良(ぬくら)(場所不明、宇佐八幡託宣集記載)

4、幸原   (  〃 )

志加牟(しかむ)( 〃 )

6、神野   (  〃 ) 

7、牛尿(うしくそ)( 〃  )


比売乃城(姫城の城)跡

 右記の3から7までの城の陥落は早かったが、「比売乃城(ひめのしろ)石城(いわき)は守備が堅く、頑固に抵抗してなかなか落城させる事が出来なかった。


岩城(国分の城山)の跡

とにかく地の利を得たゲリラ戦法に手を焼いた激しい戦いが1年数ヶ月も繰り広げられ1、400人以上のハヤトたちが首を切られたり、捕虜になった。

このとき100人ものハヤトの首を宇佐へ持ち帰り、宇佐神宮より西約1キロの所に葬って凶首塚を建てた。

そのごすぐ塚の下に「隼人の霊を」祀る百太夫殿が造立されて、現在は『百体神社』として祭られている。
さらに724年(神亀元年)宇佐神宮より「隼人の霊を慰めるため放生(ほうじょう)()をすべし」との託宣があり、744年(天平16年)八幡神は和間(わま)の浜に行幸され、(にな)や貝を海に放つ「放生会(ほうじょうえ)」の祭典が執り行われた。
宇佐神宮の放生会
( 宇佐神宮のホームページより )

これが始まりで現在は、毎年宇佐神宮で10月8・9・10日の3日間仲秋祭(放生会)として行なわれている。


隼人塚
隼人町の隼人塚はハヤトの多くの亡霊が人民に祟りをするので其の霊を慰める為に造られた供養の塚だとの口伝もある。

牧園町下中津川地区にあった城下の花山(か やま)(隼人町・松永の花山)では殺害された人の血が山の方へ逆流したと口伝えで言われている事を知っている有志が、20数年前頃ある事情でお地蔵さんとお不動さんを建立して多年この霊を供養している。

 血が山の方へ逆流したのは昔この辺は海岸で、満ち潮で血が逆流した様ではなかったかと思われる。
お不動さん(左)とお地蔵さん(右)

 先述した豊前の国、宇佐の稲積から移住した人たちは郷名を稲積郷・豊国郷と名付けて住み、氏神を韓国宇豆峯神社と名つけ、聖山を韓国岳と名つけた、韓国岳の頂上より韓国が見える訳でもなく、故郷を恋うる気持ちで聖山名としたのは百済(くだら)(韓国)より宇佐に渡来して来た人たちである証である。

その人たちの大半はそのまま大隅に住み着いたと言われている。

筆者    住吉 重太郎



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